《 漢 文 背 景 知 識 》


― №2 韓非子・法家 ―





 法家も儒家と同様に、春秋戦国時代の『
諸子百家』の中から生まれました。
儒家が法による強制ではなく礼による倫理的教化を理想としたのに対し、法家は厳格な『信賞必罰』(しんしょうひつばつ)の原理で国家の秩序を維持せよと説きます。

 『
信賞必罰』とは、賞すべき功績のある者は必ず賞し、罪を犯した者は必ず罰するという意味です。とくに、後者の罰する、という契機が強調されます。

 法家の理論を集大成した人物が『
韓非子』(かんぴし)であり、さらに、その理論の書も「韓非子」と呼ばれます。その有名な一節に、

虎の能(よ)く狗(いぬ)を服する所以(ゆえん)の者は、爪牙(そうが)なり。

とあり、これは「虎が犬を服従させることができるのは、爪があり、牙があるからだ」という意味です。

 「
爪牙」は信賞必罰による君主の絶対的な権能を表しており、この『刑』と『徳』(=刑罰と恩恵)の行使は、決して臣下に任せてはならず、君主自身が自ら行使しなければならないとされます。

 それによって王の権威を高く維持し、厳格な法の秩序によって国を治めることができるというわけです。

 H20の上智大学・外国語学部他には、この『韓非子』二柄篇の一節が出題され、
「故(ゆえ)に劫殺擁蔽(きょうさつようへい)の王(=臣下に耳目をふさがれてしまった王)は、刑徳を併失(あはせうしな)ひて、臣をして之を用ひしめ、而(しか)も危亡せざる者は、則ち未だ嘗て有らざるなり」
という一節が出てきます。つまり、刑徳の行使(=信賞必罰の権能)を、臣下に任せてしまった主君は必ず滅びるというわけです。

 「
仁(じん)=いつくしみ・おもいやり」による徳治主義(B38*)を理想とする儒家(儒教)に比べ、法家の法治主義は、一見対立矛盾するように見えます。しかし、現実の中国の歴史の中では、両者はむしろ互いに補完する関係として、中国独自の法思想を形作ってきたようです。

 現実の政治の場面では、表に出てくるのは主に儒家の方ですが、しかし、もっとプラクティカルな政治や行政の場面では法家的な原理も顔を出すといった具合に、うまく使い分けられているような印象があります。

 秦(しん)の始皇帝が、李斯(りし)の法家を採って儒家を斥けたことは有名ですが、秦朝が短命に終わったあと、漢は表向きには儒家を採り、法家を言わば隠し味として残します。

 唐はその儒家を相対化するために仏教と道教もとり入れ、宋はさらに儒家を純化した、というのがザックリとした歴史の流れですが、統治のイデオロギーとしては儒家的な原理も、法家的な原理もずっと並存していました。

 もともと、儒家は政治権力をサポートし、統治の技術やノウハウを提供するのが役割ですから、決して反体制勢力ではありません。

 儒家の中心思想の「仁=いつくしみ・おもいやり」などというと一見博愛平等主義に見えますが、政治的安定が何より大事、という暗黙の前提があり、それを超えてはならないわけです。
ですから、儒家の倫理的教化の方向と、法家的な信賞必罰の原理とが表裏一体となって、はじめて帝国を維持できるという了解が中国の為政者には常にあったと思います。

 信賞必罰的な物理的実力を恐れるが故に支配に服するというイデオロギーと、社会の基底にある農村家族的な相互扶助をベースとした儒教的道徳原理の二つを、うまく融合する事で複雑な秩序を形作っていったと言えそうです。

 たとえば、『
史記』には「礼は未然を禁じ、法は已然を施す」という象徴的な一節があります。儒家の説く「礼」は倫理として行為の以前に機能し、法家の説く「法」は行為の結果を罰するものとして事後的に機能するといった意味ですが、一つの社会規範の中に両者が棲み分ける形で統合されていることがよくわかります。

さて、ラジカルな法家思想の例題として、
H 15 東京大学 理科の漢文を紹介しましょう。

○ 秦の襄王(しゃうわう)病む。百姓(ひゃくせい)之

が為に禱(いの)る。牛を殺して塞禱(さいたう)す。

郎中(=侍従官)の閻遏(えんあつ)、公孫衍(こうそんえん)

出でて之を見る。曰く、「社鑞(しゃろう=土地神の祭祀)の時に

非ざるに、奚(なん)ぞ自ら牛を殺して社を祀るや」と。

怪しみて之を問ふ。

百姓曰く、「人主病み、之が為に禱(いの)る。今病癒え、

牛を殺して塞禱す」と。

閻遏、公孫衍説(よろこ)び、王に見(まみ)え、拝賀して曰く、

「堯舜(=ぎょうしゅん→古代の聖天子)に過ぐ」と。

王驚きて曰く、「何の謂ひぞや」と。

対(こたへ)て曰く、「堯舜は其の民未だ之が為に禱(いの)るに

至らざるなり。今王病みて、民牛を以て禱り、病癒え、

牛を殺して塞禱す。故に臣(=私は)窃(ひそか)に王を以て

堯舜に過ぐと為すなり」と。

王因(よ)りて人をして之を問はしむ。「何の里か之を為す」と。

其の里の里正と伍牢(=里長と頭)とを訾(し)すること

(=罰として金品を取り立てること)、屯(みな)二甲(=二つのよろい)なり。

閻遏、公孫衍愧(は)ぢて敢て言はず。

王曰く、「子(し)何の故に此を知らざる。彼の民の我が用を

為す所以(ゆえん)の者は、吾(われ)之を愛するを以て

吾が用を為す者に非ざるなり。吾之に勢(=権勢)あるを以て

我が用を為す者なり。故に遂に愛道を絶つなり」と。

(『韓非子』外儲説右下による)


設問(三)「愛道を絶つ」とあるが、王がそうしたのはなぜか。簡潔に説明せよ。〈縦12.9cm・横0.9cnで、1.5行〉

 襄王の考えは、" かの民が我が用を為すゆえん(=理由・わけ)は、吾(われ)之(=民)を愛するを以て我が用を為すのではないのである。吾之(=民)対し権勢あるを以て我が用を為すのである " の部分にあることは明らかでしょう。
そして、それはそのまま信賞必罰的な法家思想の真髄です。

 答案の書き方としては、この部分は襄王の政治理念であり、本来はこうあるべきだといった一般論ですから、
文末を、" 〜べきであるから" といった表現にするのを忘れないで下さい。

人民が王のために用をなすのは、王が人民を愛するからではなく、王の権勢を畏(おそれ)る故であるべきだから。





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